HPUTC’s diary

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地球の外まで飛んで行く

アマゾンのスマートスピーカー「アレクサ」には、言われたことをすべて消去する機能がプログラミングされている。
「今日言ったことを消しておいて」と言えば、アレクサに頼んだことや、集めてもらった情報などを、すべてなかったことにできる。
しかし、私たちの言葉はそうはいかない。失敗や失言を消去することはできない。

 

グリーフケア

日本人は比較的、痛み、恐れ、弱さを長いこと引きずりやすい民族性を持っている。よく言えば粘り強い、悪く言えば未練たらしい。

 

それで人気の「グリーフケア」。
中でもVR技術を駆使して仮想空間で個人との再会を果たすというドキュメンタリーがYouTubeで公開されて話題になっている。

 

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VRとは、バーチャルリアリティの略であり、「表面的には現実ではないが、本質的には現実」という技術。つまり、視覚化したものを触覚をはじめとする五感で味わうことができるというもの。

 

どこにいても教室と同じ授業が受けられる教育関連、遠隔地から手術や治療を支援する医療や介護、現地に行かなくても体感できる観光や住宅販売など、まさにコロナ時代にふさわしい活躍が示されていく。

 

VRまでいかないにしても、SNSで故人とLINEをつないでいる人もいる人が意外と多くいる。
「既読のつかないSNS」というわけだが、死んだ人への思慕と喪失感に苦しみながらも、スマホの中ではまだ生きている。

この世でのアカウントは失っても、LINEにはアカウントが残ったまま生きている。

 

そういうわけで、SNS で亡くなった人のアカウントを残すサービスがあるわけだが、このネットというのもまた、そもそも仮想にすぎない。

この仮想化がコロナ禍にあってますます加速化する中で、「表面的には現実ではないが、本質的には現実」というVR世界が、心の傷、痛みまでもいやしてくれるのか、そこはまだ賛否両論ある。


なぜなら、いくら素直、忠実な脳といえども、脳に混乱を来さないのか。

VRまでいかなくても、タブレットを使ってゲームに夢中になっている孫を見ていると、脳が大丈夫なのかと心配になる。なので、時間を決めさせるのだがそれもまた、次第にルーズになっていく。画面の向こうの世界にとらわれて、現実感を失っていき、それそのものが本能になってしまう可能性もあるのではないか。

 

かつて、「ゲーム脳」という言葉があった。
2002年に脳科学者の森昭雄氏が出版した「ゲーム脳の恐怖」に端を発している。
当時は色々と賛否両論、侃侃諤諤、何かと物議を醸し出したが、ゲーム機器、携帯、パソコンなどの電子機器の操作が人間の脳に与える悪影響は、現実に起きている。

 

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キレる人が多い
ボーっとしていることが多い
集中力が低下
物忘れは非常に多い

 

痛みを受け入れる

 

コロナによってライフスタイルも、ビジネスシーンも新しい局面を迎えている。
VRは、まだ皮膚感覚を伴うらしいが、テレワークは皮膚感覚が伴わない
なので、確かに顔を合わせて話してはいるのだけど伝わった感がなかったり、判断や決断力が鈍かったりする


人と話すのに、言葉や表情を駆使して話すわけだが、実は決めては皮膚感覚

この皮膚感覚に異常がもたらされると、「自我=ここに私がいる」という意識にズレが生じると言われている。

 

脳科学者J・C・リリー博士が皮膚感覚から外的刺激を遮断するアイソレーションタンク」(感覚遮断タンク)という装置を考案し、この中に入ると視覚、聴覚だけでなく、皮膚感覚や重力などの体性感覚がなくなるというもの。

 

リリー博士は、皮膚感覚が閉ざされた結果について「自我が抜け出して、隣の部屋にひゅーと移動し、さらには地球の外まで行ってしまった」と表現している。

 

ノンフィクション作家立花隆(たかし)さんは、「ずるりと身体の表面から自我がずれた」と表現し、ノーベル物理学賞受賞者のリチャード・ファインマン博士は、「自我が身体からズレ、やがて遊離したように感じた」と記している。

 

つまり、テレワークなど画面を通してのコミュニケーションは、「わたしはここにいる」という自我を失った、あるいはズレた状態、地球の外まで飛んで行ってしまった状態ということになる。
なので、伝わった感がなかったり、判断や決断力が鈍くなったりするのだが、その一方でリアルより大胆になれるとも言う。

 

ボイトレや発声法、あるいは表情トレーニングをレッスンを、リモートですることも多くなり、始めはうまくいくかどうか不安もあったが、それがリモートだといともたやすくできてしまう。

 

俳優志望者でも、自分を手放すことができるようになるまでにかなりの時間がかかる。あるいは、プロになってもこれとの格闘具合が役の味や深みに関係してくる。

 

しかし、「リモートだといつもより大胆になれる」というのと、これとでは大きく違う


どちらも、「自我を手放す」ものだが、前者は皮膚感覚などが遮断されて否応なく大胆になれるという現象、後者は「いまここにいる」わたしが、利己的で傲慢、あるいは、悲しみや苦しみ、傷ついた自分を客観視することができ、これを受け入れることができるか…。

 

このプロセスを経た上で、「自分を手放す」ことができた時、あなたは初めて「消えない悩み・消せない傷」から解放される。

そのための手段として、皮膚感覚を失った自我のズレを、自らを手放すきっかけにすることはやぶさかではない。

 

また、愛する人の死を受け入れられないまま、自我を手放せずLINEをつなげたままにしているという行為、これもまた、それこそリリー博士の言う「自我が抜け出して、隣の部屋にひゅーと移動し、さらには地球の外まで行ってしまった」状態となんら変わらないので、直ちにLINEを切り、悲しみを受け入れることをお勧めする。

 

私たちは、友人、子育て、仕事を通して、人をリードすること、されることに腐心するが、まず自分自身を正しくリードすることを優先しないと始まらない。

 

このleadの語源(インド・ヨーロッパ語 leithより)には、出発する、出発点を超える、死ぬ、手放すという意味がある。


自らを手放すには、まず「受け入れること」。ここにあなた自身を出発させる原点がある。