HPUTC’s diary

想定外のパンデミック。滞る就活、内定取消し、リストラ。このピンチをチャンスに変える人間力UP養成講座開設中!

褒め方の工夫

「ひとつのほめ言葉で2ヶ月は生きられる」と言ったのは、「トム・ソーヤの冒険」の著者マーク・トウェイン

「人をほめたら同時にものを頼んではいけない。ほめ言葉は無料でなければ価値がない」と言ったのもマーク・トウェイン

優秀な販売員は、褒めることで客の足をピタッと止めるという。目の前を歩いている人のファッション・ポイントを瞬時に見つけて釘付けにする。

 

相手の長所をずらして褒める

 

褒められ慣れている人がよく褒められる。あまり褒められたことがない人は、いつもあまり褒められない。よく観察していると、前者は比較的褒められやすいポジションをよくわきまえているので褒められる確率も高い。おそらく小さい頃から褒められるうちに、「褒められ目線」を自然に身につけてきた感じがする。後者は、逆にあまり褒められたことがないので、そのポジションがよくわからない。同じことをやっていても、たいてい褒められ目線の外側にいる。しかもそれは、「よりによってなぜそこ?」というポジションなので、自ずとタイミングもあまりよろしくない。心の中には「私だってちゃんとやっているのに」という思いがいつもあるので不満顔も染み付いてしまっている。

 

長く演出家をやってきて思うことは、有能な演出家というか、何かに秀でた人はみな褒め方がうまい。うまいというかよく工夫している。ある高名な指揮者は、怒り方も工夫していて、どこで時計を外し、どこでの小節で怒るかまでもはじめから織り込んで、リハーサルをすると聞いたことがある。確かに、怒り方がうまい人は、褒め方もうまい感じがする。つまり人の心を動かすには、褒め方と怒り方のタイミングをよく心得ていることが肝要である。才能や力があってもこれがあまりうまくない人は、なかなか人の上に立てない。

 

では、どんな褒め方をすれば良いのか。これを心得れば怒り方の術がもれなく付いてくる。ポイントは、褒められることで何か新しいことを気づかせてあげることにある。これだと褒められることに慣れている人でも、「また言われた」といつものほくそ笑みが「なるほど」という気づきに変わる。褒められたことがあまりない人は、いざ褒められてみると急に居心地が悪くなって、くすぐったく感じるようだが、そこに気づきが伴うので、これまた「なるほど」と思う。どちらかというと褒める言葉の内容よりも、褒めるタイミングや褒める側の姿勢や行動に「気づき」を感じさせる方がより効果的。

では、「褒められ上手」にも「褒められ下手」にも通用する褒めワークの3ポイントをご紹介しよう。

 

1. 真顔で褒める

笑いながら褒める人が多いが、本気で褒めることが大切

2. 褒め言葉の見える化

口だけでなく「そういうところを真似したい」と良い点の見える化を図る

3. 褒め言葉のアナログ化

手書きのメモに「いつもありがとう」「いつも助かってます」などの言葉を添える

中でも、褒め言葉のスーパースターが「さすが」。これは男女、目下、目上の人みんなに通じる万能の褒め言葉。これを真顔で言えば、あなたはもう一流の褒め上手。

 

究極の怒り方

 

ところで、これができれば上手な「怒り方」がもれなく付いてくると前述したが、共通のキーワードは「認める」「気づき」褒め言葉は相手を、怒りは自らの怒りを認めることにある。たとえ相手が相当悪かったとしても、怒られて当然と決めつけてかかるほど、愚かな怒り方はない。申し訳ないが、これは怒るエネルギーをまるで損するほどに効果がない。怒られた方が怒られたことで気付かされることがたくさんなければ意味がない。私たちは、成功したことより失敗したことの方が圧倒的に多い人生を歩んできた。ちょっと我が身を振り返っただけでも、失敗しなければ学べなかったことばかりが思いつく。

つまり上手な「怒り方」は、失敗した分「気づきの倍返し」ができるような怒り方。もっと言えば、怒られたのに褒められたような感じがする怒り方。これは究極、難しい!

 

「人生の何を見るか、またどう見るかが、次のステップ、ひいては運命さえ左右する」と言ったのはマーク・トウェイン

「想像力のピントがずれている時は、自分の目は信用できない」と語ったのもマーク・トウェイン

このマーク・トウェインについてー

アーネスト・ヘミングウェイは『アフリカの緑の丘』において、「あらゆる現代アメリカ文学は、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィン』と呼ばれる一冊に由来する」と述べている(wikipedia)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

尊厳と誇り

この写真は、終戦直後の長崎。あまりにも悲惨な原爆を省みるときに、もはやこの写真を外せないほどに、現代人の心を動かす一枚。

 

f:id:HPUTC:20200917151054j:image

 

「焼き場に立つ少年」と名付けられるこの写真は、昨年長崎を訪問したローマ法王フランシスコが、これをポストカードにして世界に配布するようにと信者たちに指示した一枚。

 

撮影したのは、アメリカ従軍カメラマン、ジョー・オダネル氏。彼は19歳でアメリカ海軍に従軍し、太平洋戦争に参戦。
パールハーバー攻撃を知り、敵国日本に大きな憎しみを抱いていた。

 

f:id:HPUTC:20200917151127j:image

 

故オダネル氏が広島・長崎を撮影した写真は、300枚にも及ぶという。敗戦直後の日本の調査を命ぜられ、日本に強く抱いていた敵愾心を募らせていた彼が、この少年と出会ってから大きく変えられていく。ジョー・オダネル氏がこの少年にシャッターを切った時の回想談をかいつまんで紹介するとー

 

焼き場に十歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には二歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。(中略)

 少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見続けた。一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で彼は弟を見送ったのだ。

 

 私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。

(中略)
あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか。

アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。直立不動の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった。そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私はなす術もなく、立ちつくしていた。

 

長崎に原爆が投下されてから75年ー
この一枚の写真が語るものはあまりにも雄弁で、言葉も出ない。

 

この少年が抱え込んだ問題は、当然自ら抱え込んだものではない。彼は、戦争の犠牲者であり、自分の身に一気に押し寄せてきた戦争、原爆、弟の死。その代償はあまりにも巨大すぎて、思考も感情も完全に停止状態

そんな中にありながら、真っ直ぐ前を見つめる目、真一文字に結ばれたくちびる、裸足の足元は境界線を示すラインにピタッと止まり、さらにピシッと伸ばされた指先、背中の弟をも凌駕するこの姿に圧倒されるばかりだが、これは何を語っているだろうか。

 

目は希望に輝くことはないというには並外れて凛々しく、悲しみ、絶望をグッと堪えんばかりのくちびるはあまりにも雄弁。
足元は境界線にすくみというには確固たる意志を持ち、そしてまっすぐに伸ばされた指先。
戦時の条件反射というには、そこに人としての尊厳、誇りが、わずかに垣間見られないだろうか。


たとえ思考も感情も停止状態だとしても、何があろうとこれだけは譲れるものではない。

 

 

整理整頓のお国違い

日本のゴミ出しが細かすぎるために、ゴミ屋敷もまた登場すると言われている。その一方で、古紙を大切に扱う素晴らしい日本の古本屋文化もある。

そもそも、「しまう・片付ける」に欧米と日本とではこれほどに違う。

 

しまう・片付ける


○ 日本人は、ひたすら重ねていく

 

ピアノの上の上、電子レンジの上の上

もったいない、捨てられないという観念が日本人は強い

しかも新し物好きで使い捨て文化が発達

ホッカイロの発想は日本より寒い国にもない〜ホッカイロのような提案をしてもあまり反応しない。基本、寒い時は重ね着をする。


○ 欧米人は、目に見えない状態にする

 

ドアの中   

重ねることでは片付けたことにはならない

もったいないという感覚はない

使わないものは捨てる

 

日本人の無駄

 

日本の粗大ゴミはまだ使えるものが多いので、日本に住む外国人は重宝する

無駄になる食品  632万トン

原因は、日本人は鮮度を過剰に気にする


一般廃棄物排出量 OECD

 

1位    超ゴミ大国アメリ

2位 ドイツ リサイクル大国にもかかわらず

3位 フランス

4位 イギリス

5位 韓国

6位 日本

 

○リサイクル率

 

1位 ドイツ 65%

2位 韓国 59%

3位   イギリス 43%

4位   フランス 38%

5位   アメリカ 35%

6位   日本 19%


ところでwithコロナになって、ネット通販によるダンボール。

夏休みの自由研究で子供たちがだいぶリサイクルしてくれたようだが、ダンボール、コロナ以上に増殖中とか。

 

 

自販機withコロナ

コロナ時代に加えて、AI(人工知能)の加速化が進み、もはやかつての自販機イメージでは間に合わない。その種類も、飲料水、たばこ、菓子、弁当、アイス、ラーメン、米、だし汁、冷凍パン、果ては温泉、ぬいぐるみに至るまで、その普及台数はおよそ250万台という。

 

自販機に心のオアシスを求めて

 

自販機といえば、冷たいか熱いかだが女性向けに常温というのもある。そうかと思えば純金を購入できるという代物。これ、自販機だけで700万。群馬県伊勢崎市には、懐かしい昭和のレトロな自販機がズラリと並ぶ自販機小屋がある。そして同じく群馬県みどり市の山奥に、伝説の自販機があるという。この自販機を求めて全国各地から続々と人々がGoToTravel。なんと自販機の中には、すべて手作りのうどん、そばこだわりの逸品が。4つに1つがエビ天付きの当たり。このコロナ時代、なんとこんなところに心のオアシスがある。

 

f:id:HPUTC:20200911090353j:image

 

この手作りの自販機は特別としても、あとは自販機ではなくてもだいたいはコンビニなどで手に入るもの。「withコロナ」「ソーシャルディスタンス」ということになれば、自販機ほど時代に合ったものはない。言うまでもなく、アプリで事前に商品を購入しておけば、あとは実機で受け取るだけというから、町の隅でやや精彩を欠いていた自販機までも、クローズアップされていくに違いない。

 

そうでなくても、来日した外人が驚くものの一つに挙げるのがこの自販機だ。中には自国の店員より素晴らしい接客ぶりに感動する外人もいる。おまけに方言や外国語で話す(来年に延期された東京オリンピックを控えて)機種もあるというから、これはもう至れり尽くせりだ。それなら一層のこと、このAI時代に「おもてなしAI自販機」を開発して海外進出していけばもっといい。ところが、そうはいかないわけがある。日本の自販機は路上に置けるが、海外では治安が悪いのでそうはいかず、設置するところがかなり限定されてしまうのだ。となると、日本は世界一の自販機独占大国を誇るものの、その便利さで世界に進出していきようもない。

 

f:id:HPUTC:20200911090753j:image

 

コンビニの進出により、何かと影が薄くなった自販機。AI化により、きっと今に彼らは歩き出す⁈

 

人が人らしく生きる

オンライン・ビジネスが主流になり始めて、コム力もまた新しいフェーズを迎えている。
ソーシャルディスタンスをキープしながら、しかもマスクをしてと言うことになると、かなりコム力に知恵を絞らないと、親密感を失っていく。レストランもお一人様用サービスに軸足を変え、一人で黙々とモグモグする人たちを応援しはじめている。
社会は、人々が「親密感」をひたすら失っていく方向に傾いている。

 

ユマニチュード(Humanitude)

これは、フランス語で「人間らしさ」という意味。

1. 丁寧なお辞儀をしない

目線を相手と水平に合わせて、正面からにっこり笑ってゆっくり近づく

2. 程よい距離感を保たない

そばに寄って触れないと、お年寄りの変化に気づけない。

3. てきぱきしない

介護ワークを少しでも早く捗らせるために、テキパキ動かなければならないが、それではひたすら親密感を失っていく。なので、あくまでも相手のペースに合わせる。

4.余計なことはしゃべる

一人ひとりにいちいち話しかけていたのではつかれはてるので、そうでなくても人手不足。なので、これまたあまり話しかけずにテキパキと。しかし、これではコム力どころではないので、「常にゆっくりと、前向きな言葉で話しかける」。

5. 間違いを直さない

お年寄りは、物忘れ、なくしものなど、あれこれと行動が奇妙になっていくが、敢えて間違いを質さず、お年寄りの行動に合わせる。

 

これは、フランスの体育学の専門家イヴ・ジネストさんとロゼット・マレスコッティさんの40年以上におよぶ病院、施設や家庭での経験から生まれたケアの技法だ。これは、「あなたのことを大切に思っています」ということを相手が理解できるように伝えるための技術と、その技術を使うときに考えておくべき考え方(これを「ケアの哲学」という)。

f:id:HPUTC:20200909093018j:image


これが特に、認知症のお年寄りに対して大きな成果を上げてきた。それは、何よりも「人が人らしく生きること」を最優先し、その基本となる「見る・話す・触れる・立つ」を実践し、「人間らしさ」の再認識・尊重を目的としている。

 

これこそ、親密なコミュニケーション、コム力を発揮していくための真骨頂ではないか。これは、お年寄りだけではなく、毎日お年寄りを相手に無言でテキパキと介護をしつづける介護者の精神にも支障を来たしていくという。これでは、介護のプロとして働くどこではない。

創始者の一人、ジネスト氏は「ユマニチュードでは、『ケアする人』を、心身に問題を抱える人をケアする職業人(プロ)と定義し、さらにその目標としてー

①回復
②機能維持
③最期まで寄り添う

ーという3つのレベルがあり、「健康に害を及ぼさない」ことを絶対条件としている。

 

しかし、世界的な「ソーシャルディスタンス」。コロナ禍の自粛中にお年寄りの認知症がますます増え、症状も悪化の一途を辿っているという。ユマニチュードどころではないのだ。
お年寄り、それどころではなく「人の心」そのものが忘れられていく。

 

 

 

心にポッカリ空いた穴

「人間は考える葦である」「クレオパトラの鼻が低かったら世界は変わっていただろう」。
誰でも一度は耳にしたことのあるこうした名言。

これは、ブレーズ・パスカル(1623-1663)の「パンセ」という作品。あまりにも有名な作品なので、パスカルのフルネームをパスカル・パンセと思っている人もいる。

 

彼は思想家であると同時に、気圧の単位ヘクトパスカルにその名を残すほどの科学者。なので、まるで科学の法則のように合理的で冷徹な視点にたって、人間の心の特徴を明らかにしていく。

 

パスカルが生きた17世紀のヨーロッパでは、科学が著しく進歩し、この地上世界は人間が誇るあらゆる欲に満たされていた。それを冷静に見つめていたパスカルは、理性こそ万能だという考えには、危うさがあると確信し、人間の弱さを明らかにしようとしたメモ、それをまとめたのが「パンセ」。

 

なぜ人間は同じ過ちを繰り返すのか—

人間の願望は、自己愛に源を発していることを言及し、自分を認めて欲しいという思いが、生きる原動力になっている。ところがこの自己愛は、時には自慢や嫉妬、羨望を生んでしまい、現実を正しく直視できずその目は曇ると指摘する。

 

コロナによる自粛で「コロナうつ」になる人が続出。パスカルは「パンセ」の中で、「趣味に打ち込むこともなく、仕事もない状態で、じっと部屋に閉じこもっていると、気分が沈んでいくだろう。人間は何かに熱中していないと生きていけない生き物だ」と言い切る。

しかし、残念ながら際限なく何かに熱中し続けることは不可能。繰り返される熱中と挫折。

 

「人間の心の中には神以外には満たすことのできない真空(空洞)がある。」と言ったのもまたパスカルだ。

 

 

地球の外まで飛んで行く

アマゾンのスマートスピーカー「アレクサ」には、言われたことをすべて消去する機能がプログラミングされている。
「今日言ったことを消しておいて」と言えば、アレクサに頼んだことや、集めてもらった情報などを、すべてなかったことにできる。
しかし、私たちの言葉はそうはいかない。失敗や失言を消去することはできない。

 

グリーフケア

日本人は比較的、痛み、恐れ、弱さを長いこと引きずりやすい民族性を持っている。よく言えば粘り強い、悪く言えば未練たらしい。

 

それで人気の「グリーフケア」。
中でもVR技術を駆使して仮想空間で個人との再会を果たすというドキュメンタリーがYouTubeで公開されて話題になっている。

 

f:id:HPUTC:20200902235553j:image

 

VRとは、バーチャルリアリティの略であり、「表面的には現実ではないが、本質的には現実」という技術。つまり、視覚化したものを触覚をはじめとする五感で味わうことができるというもの。

 

どこにいても教室と同じ授業が受けられる教育関連、遠隔地から手術や治療を支援する医療や介護、現地に行かなくても体感できる観光や住宅販売など、まさにコロナ時代にふさわしい活躍が示されていく。

 

VRまでいかないにしても、SNSで故人とLINEをつないでいる人もいる人が意外と多くいる。
「既読のつかないSNS」というわけだが、死んだ人への思慕と喪失感に苦しみながらも、スマホの中ではまだ生きている。

この世でのアカウントは失っても、LINEにはアカウントが残ったまま生きている。

 

そういうわけで、SNS で亡くなった人のアカウントを残すサービスがあるわけだが、このネットというのもまた、そもそも仮想にすぎない。

この仮想化がコロナ禍にあってますます加速化する中で、「表面的には現実ではないが、本質的には現実」というVR世界が、心の傷、痛みまでもいやしてくれるのか、そこはまだ賛否両論ある。


なぜなら、いくら素直、忠実な脳といえども、脳に混乱を来さないのか。

VRまでいかなくても、タブレットを使ってゲームに夢中になっている孫を見ていると、脳が大丈夫なのかと心配になる。なので、時間を決めさせるのだがそれもまた、次第にルーズになっていく。画面の向こうの世界にとらわれて、現実感を失っていき、それそのものが本能になってしまう可能性もあるのではないか。

 

かつて、「ゲーム脳」という言葉があった。
2002年に脳科学者の森昭雄氏が出版した「ゲーム脳の恐怖」に端を発している。
当時は色々と賛否両論、侃侃諤諤、何かと物議を醸し出したが、ゲーム機器、携帯、パソコンなどの電子機器の操作が人間の脳に与える悪影響は、現実に起きている。

 

f:id:HPUTC:20200902235726j:image

 

キレる人が多い
ボーっとしていることが多い
集中力が低下
物忘れは非常に多い

 

痛みを受け入れる

 

コロナによってライフスタイルも、ビジネスシーンも新しい局面を迎えている。
VRは、まだ皮膚感覚を伴うらしいが、テレワークは皮膚感覚が伴わない
なので、確かに顔を合わせて話してはいるのだけど伝わった感がなかったり、判断や決断力が鈍かったりする


人と話すのに、言葉や表情を駆使して話すわけだが、実は決めては皮膚感覚

この皮膚感覚に異常がもたらされると、「自我=ここに私がいる」という意識にズレが生じると言われている。

 

脳科学者J・C・リリー博士が皮膚感覚から外的刺激を遮断するアイソレーションタンク」(感覚遮断タンク)という装置を考案し、この中に入ると視覚、聴覚だけでなく、皮膚感覚や重力などの体性感覚がなくなるというもの。

 

リリー博士は、皮膚感覚が閉ざされた結果について「自我が抜け出して、隣の部屋にひゅーと移動し、さらには地球の外まで行ってしまった」と表現している。

 

ノンフィクション作家立花隆(たかし)さんは、「ずるりと身体の表面から自我がずれた」と表現し、ノーベル物理学賞受賞者のリチャード・ファインマン博士は、「自我が身体からズレ、やがて遊離したように感じた」と記している。

 

つまり、テレワークなど画面を通してのコミュニケーションは、「わたしはここにいる」という自我を失った、あるいはズレた状態、地球の外まで飛んで行ってしまった状態ということになる。
なので、伝わった感がなかったり、判断や決断力が鈍くなったりするのだが、その一方でリアルより大胆になれるとも言う。

 

ボイトレや発声法、あるいは表情トレーニングをレッスンを、リモートですることも多くなり、始めはうまくいくかどうか不安もあったが、それがリモートだといともたやすくできてしまう。

 

俳優志望者でも、自分を手放すことができるようになるまでにかなりの時間がかかる。あるいは、プロになってもこれとの格闘具合が役の味や深みに関係してくる。

 

しかし、「リモートだといつもより大胆になれる」というのと、これとでは大きく違う


どちらも、「自我を手放す」ものだが、前者は皮膚感覚などが遮断されて否応なく大胆になれるという現象、後者は「いまここにいる」わたしが、利己的で傲慢、あるいは、悲しみや苦しみ、傷ついた自分を客観視することができ、これを受け入れることができるか…。

 

このプロセスを経た上で、「自分を手放す」ことができた時、あなたは初めて「消えない悩み・消せない傷」から解放される。

そのための手段として、皮膚感覚を失った自我のズレを、自らを手放すきっかけにすることはやぶさかではない。

 

また、愛する人の死を受け入れられないまま、自我を手放せずLINEをつなげたままにしているという行為、これもまた、それこそリリー博士の言う「自我が抜け出して、隣の部屋にひゅーと移動し、さらには地球の外まで行ってしまった」状態となんら変わらないので、直ちにLINEを切り、悲しみを受け入れることをお勧めする。

 

私たちは、友人、子育て、仕事を通して、人をリードすること、されることに腐心するが、まず自分自身を正しくリードすることを優先しないと始まらない。

 

このleadの語源(インド・ヨーロッパ語 leithより)には、出発する、出発点を超える、死ぬ、手放すという意味がある。


自らを手放すには、まず「受け入れること」。ここにあなた自身を出発させる原点がある。