HPUTC’s diary

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心のソーシャルディスタンス

地球の海と陸の面積の割合は、およそ7:3。
全面積の71.1%が海、28.9%が陸。
海陸の境界線は海岸線ということになるが、潮の満ち引きや波の状態、気圧や地盤などによっても変化する。
なので満潮水位になった時を海岸線とし、逆に最低水位を領海も定めている。これを低潮線といい、海岸線と低潮線の間に潮が満ちると海になり潮が干くと陸になる部分が出てくることになる。

日本の海岸線はおよそ3万キロ。
地球一周がおよそ4万キロだから、ここに島国日本ならではの特徴が現れている。

 

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海陸に境界線があるように、こころにも境界線がある。それはどこにあるのか。
あなたはひとりで何かを思い巡らすとき、誰と話をしているか。
内なる自分。確かに。その内なる自分はどこにいるのか。

それは、「見ている私と見られている私」の間に存在している。なので、人の間と書いて「人間」という。

「見ている私」とは、何か物音を聴いてそちらを見る。そこに何か不思議なことがあるといったいこいつはなんだ?と思い巡らす。
思い巡らすとき、今度は「見られている自分」と話し始める。
何か思い悩んだり、考えごとがあったりすると、そこに「見られている自分」がいるのでそいつと話し始める。こう考えたら、あるいはこのような行動に出たら、こんなファッションをしたら、人はどう思うだろうと「見られている自分」がいろいろと考え出す。

この「見ている私と見られている私」の間のソーシャルディスタンスを怠ると、人間は感情的になり、憤慨したり激怒すると自分を見失う。
たとえそれを表に出さなくても「見ている私と見られている私」の間に不満が生じると、生きがい、やりがいがわからなくなり、生きる支えがなんだったかわからなくなる。
自分を不甲斐なく感じ、悩みをドンと抱えてしまうことになる。
なので、「見ている私と見られている私」の間でも、ソーシャルディスタンスは欠かせない。

 

ところでコロナ以降、よく散歩をするようになった。オンラインでの仕事が多くなるとだいぶ運動不足。今年のサラ川にー

 

激論も パジャマ姿の 下半身

 

とまさしくその通り。パジャマじゃなくてもせいぜいスウェットにしたところで、上と下があまりに格差があると、それはそれで「見ている私と見られている私」の間に妙な距離感ができてしまい心のバランスを失う。

 

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さて、その散歩。
散歩をしているとあることに気づく。
ああ向こうから人が来たなと、まずその人を見る。一旦目を逸らした後、すれ違い様にまたチラッと見る。
どちらかというと、欧米人はここで笑顔を交わすのだが日本人はここで目を逸らす。
それが厄介なので、私はもう最初から見ないことにしている。
このとき、私は「世間」を感じる。
世間というのは、「人と人との間」のことを言う。
オンラインなどで引きこもり生活に慣れてしまうと、世間の目のうっとうしさを余計に感じるようになった。散歩でたった人とすれ違いざまの目線さえうっとうしく思うほどに。

つまり、「人と人との間」の距離感が閉ざされると、それがそのまま「見ている私と見られている私」の間にまで影響を及ぼし、こころのバランスを失い始めることになる。

 

「人と人との間」で最も育まれるべきは、実は肌感覚である。先日、イギリスでワクチン接種をした高齢のご婦人が「これでやっと孫をハグできるわ」と言っていたが、私たちは、ソーシャルディスタンスやリモートワークでこの肌感覚を失っている。肌感覚を失うと、誰も人間嫌いになる。