究極の怒り方
娘は、よく孫を怒る。
あまり怒らないで育てたつもりなのに、娘はしょっちゅうわが孫を怒りまくる。その度に胸が痛くなる。小4になる上の孫もまた、よく怒られるようなことをするので仕方ないところもあるのだが、それにしても半端ない。
あまりのことに「そんなにはじめから怒って言っても仕方ないだろう」と注意すると、怒った声で「怒ってない」と言う。
しかし、これまでに「この人の怒り方は上手だなぁ」と思った人が何人かいたが、彼らに共通するのは自分が怒っていることを、まず「認める」ところにある。決して「怒ってない」などとは言わない。
先日投稿した「褒め言葉」は相手を、怒りは自らの怒りを認めるところにある。たとえ相手が相当悪かったとしても、怒られて当然と決めつけてかかるほど、愚かな怒り方はない。申し訳ないが、これは怒るエネルギーをまるで損するほどに効果がない。怒られた方が怒られたことで気付かされることがたくさんなければ意味がない。
私たちは、成功したことより失敗したことの方が圧倒的に多い人生を歩んできた。ちょっと我が身を振り返っただけでも、失敗しなければ学べなかったことばかりが思いつく。
つまり上手な「怒り方」は、失敗した分「気づきの倍返し」ができるような怒り方。もっと言えば、怒られたのに褒められたような感じがする怒り方。これは究極、難しい!
「人生の何を見るか、またどう見るかが、次のステップ、ひいては運命さえ左右する」と言ったのはマーク・トウェイン。
「想像力のピントがずれている時は、自分の目は信用できない」と語ったのもマーク・トウェイン。
このマーク・トウェインについてー
アーネスト・ヘミングウェイは『アフリカの緑の丘』において、「あらゆる現代アメリカ文学は、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィン』と呼ばれる一冊に由来する」と述べている(wikipedia)。